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隣のお寺の扁額修理

今年秋に長男が隣寺の晋山・結制式で首座を務めさせて頂くこととなり、その打飯金として扁額の修復を申し出て承諾され、3月上旬から始めたその作業が本日完成し無事元の処に納めることが出来ました。
と、いっても 一般の方は上記の文を読んでも専門用語が多く、どんな内容か判らないと思います。

晋山式とは住職の就任式で結制式と併修することで大和尚の位となる重要な儀式です。

結制とは釈尊の時代からある修行形式で雨期の間、一カ所に大勢の僧侶が集まり共同生活をするにあたり、その修行中の規則・制約を結ぶということで結制・制中と呼ばれ、そのなかで修行僧のトップとなって僧侶を牽引する役職の僧を首座といいます。
この役職を務めた後、寺院の住職となりますので僧侶には不可欠の儀式です。
昭和以前は結制修行する寺院は本山、或いは地方の限られた寺院等しか無く、又首座を務めるにあたっては修行期間中の修行僧の食料代を負担することとなっており、これが打飯金と呼ばれ、かなりの額で為に簡単には首座を務められなかったと聞いています。
しかし、現在では首座和尚がなかなか見つからずこの式典の開催に苦労している寺院もあるようです。  

修復前の扁額

修復前の扁額

 

修復後の扁額

修復後の扁額

 

扁額の置文

扁額の裏の文字

 

写真が隣寺の晋山・結制式の記念として修復させて頂いた扁額です。
「寺に入れば、まず額を見よ」と云われますが、「額は寺の顔」実にその言葉の如く、『瑠璃殿』は御本尊が『薬師如来』であることを表しています。
この額字を御書きになったのは無学愚禅(むがく ぐぜん)和尚様で、
愚禅和尚様(一七三三~一八二九年)は寛政年間に活躍された、石川県金沢市の大乗寺四十三世の住職で、世寿九十八歳、当時としては驚異的な長命な方であったと伝えられています。
今般の修復で、額の裏面にその経緯が記されており、寛政十一年(一七九九)に掛けられ、その後、明治三年(一八七〇)に修復されたことが判明致しました。

民間信仰の篤かった時代、様々な願い・悩み・病を抱えた人々はその救済を求め各地の寺社仏閣に参拝致しました。
この『瑠璃殿』には眼病からの救いを求め多くの人々が来山し信仰をあつめたと古老から聞いています。
扁額の修理・修復にあたり、その御縁に感謝申し上げる次第です。

 
 

花を探して

月3回の毎火・水曜日は『茶の湯』の稽古で、朝の勤行の後、花を探しに出かけます。
平成に入り「裏山に花樹を植えて整備しよう」との檀信徒の発案により雑木を伐採し植樹を初めて10年経った頃からどうにか花を切れるまでに成長し、以来その度毎に出かけて稽古場に届けています。
と云っても四季を通じての花は限りがあり、近くの家・河原・道端にある時期の花を頂いています。
始めの頃はあれもこれもと沢山採っていましたが、慣れてきた今日では最低限の数になりました。
花を採りながら、いつも思うことは「人間の思うようにはいかないものだ」「花のことは花に訊け」と云うことです。
いいなーと思っても霜やけしていたり、花が傷んでいたりと云う具合で、なかなか思うような花を探し出すのは難しいことです。
又、天候によっても左右されます。「この花は来週あたり良いかな」と思って行ってみると時期を過ぎていたり、未だだったりと・・・・。
いつもあると思っていた花が道端は工事によって、河原は流れが変わることで無くなっていたり・・・。
正に無常の世界です。
それでも今日一番に咲いている花を切らしてもらい、その美しさをあるがままに床に飾らせてもらいますと心につぶやきながら今朝も出かけました。

紫陽花・半夏生・縞アシ

 
 

墓地排水・舗装工事

産女観音墓地

施工前の墓地通路

産女観音墓地

施工後

 

産女観音には、江戸時代に本堂再建に尽力された檀家さん三十余軒と近年に御縁を頂いた方々を併せて五十余基の墓所があります。
火葬が定着するまでは飲み水の関係で当地には埋葬されず、隣寺の墓地に埋葬されていました。
学校の通学路の脇にある隣寺の墓地は、冬になると土饅頭の上に建てた提灯が破れ、北風がピューピュー吹く夕暮れは怖くてまっしぐらに駆けぬけて帰宅した思い出があります。
そんな思い出の墓地ですが、火葬になってから各家で墓所を掘り起こし、本堂の裏手を整地して現在の墓地を建立し改葬されました。
雨が降るとぬかるみ、足元が汚れ檀信徒の皆様には苦労かけましたが、今般、檀中で土木業を営む『牧野組』さんの施工により排水・通路舗装工事が完了いたしました。
セメントと違い浸透性があり、日光の照り返しを抑えてヒートアイランド現象を緩和する素材で舗装致しましたので、完全に固まるまで2~3日かかるようです。
檀信徒の皆様には御迷惑をおかけしますが、この間、暫時墓参を御遠慮頂きますよう御願い致します。

産女観音墓地

右奥が歴代住職の石塔

 

 
 

初夏の風景

夜明けが日一日と早くなり境内のお堂を開けに行く時にはもう明るくなっている。
この時期、雨が上がると草木の緑が一層鮮やかになり野鳥が一斉に囀り始める。

何をしゃべっているか解るといいなと思ったりするが、鳴き声は鳴き声として聞くのがいい。
なまじ解ると興ざめすることもあろう。
産女観音 初夏の境内 1

ほととぎす(杜鵑)の声も聞こえる。
法事の供養の言葉(法語)に
『人生は無常にして往時は悠(ゆう)たり、又 逝水(せいすい)の如く去って留め難し
 杜鵑喚び覚ます邯鄲(かんたん)の夢、頭を回(めぐ)らせば暁巒(ぎょうらん)に残月浮かぶ』
とあるが、西の空に月が残るこの季節の風景を詠んだ詩を思い起こす。
邯鄲は中国の昔の都市の名前。盧生(ろせい)という青年が邯鄲の旅館で、道士の枕を借りて寝ているうちに、栄枯盛衰の50年の夢をみたが、目が覚めてみると、それは粟飯がまだ炊きあがらない程の短い時間であったという故事で、人間の盛衰のはかなさをたとえたものという。
私はこのたとえを、邯鄲は今でいえば新宿・池袋のような歓楽街で、ひとときの快楽にふける人をいさめる言葉だと教えられた記憶がある。
酒に酔い一時の夢に酔いしれる。ずっと酔いしれていたいが、やがて朝になると二日酔いの苦しさと、又やってしまったと後悔の念にかられるのである。
各会の会合・総会が多くなる時期、寝不足ぎみでフラフラしてお堂を開けに行く私の頭に、
『邯鄲の夢・邯鄲の夢』とホトトギスが厳しく諫めているような気がする。

産女観音 初夏の境内 2産女観音 初夏の境内 3

 
 

最近のお買物。徳利

最近のお買物。丹波焼きの徳利です。
店舗で買物する機会が少なくなった現在は、通販・ダイレクトメールで気に入った品物を購入しています。写真の品は、静岡市内の道具屋さんのハガキで求めたものです。
案内には古丹波徳利と紹介されていましたが、見るとそうではなさそうです。でも値段が値段、●千円の単位ですから・・・。一緒に同価格の朝日豊斎の窯変花生も届けてもらいました。
早速、山紫陽花・縞アシ・雪の下を活けてみました。
結構良さそうです。

徳利と云うと子供の頃の思い出があります。当時はお酒は量り売りの時代、隣村にある酒屋さんへ酒を買いにいくのが子供の仕事でした。行きは良い良いですが、帰りは重たくて・・・・。加えて急な来客の時は一刻も早くと云われていますから余計に大変でした。

でも、御駄賃でお菓子を買うのが楽しみで、誰かこないかなーなんて思っていました。
量り売りの記憶も薄れてきましたが、以前中国に観光旅行に行ったときの話。空港で買った洋酒の空ビンを捨てようとすると、ガイドさんから「このあと紹興に行きますから空ビンは捨てないで下さい」と云われました。本場の紹興市で升と漏斗で入れた「紹興酒」

子供の頃の思い出と共に美酒に酔いしれました。
ガイドさん、ドライバーさんからは『酒鬼』と云われましたが・・・・・・・・・。
そんな思い出が徳利を買う御縁となったかもしれません。

 
 

明日 藁科川解禁

台風一過の晴天でしたが曇ってきました。
明日6月1日は藁科川の鮎解禁日。
花を探しながら河原へ足をのばしました。
川は昨日までの雨で写真(朝5時)の様な状態。とても川には入れません。
小学校を卒業して産女に転居した私は、町の子から田舎の子になるべく、勉強そっちのけで野山の遊びを学びました。
メジロ獲り・蕨・鮎・クルミ・山桃・グミ・・・・なつかしいなー
その当時の解禁日は多くの釣り人が集まり、夜明け前から竿を出していました。
私もわくわくしながら出かけ、学校登校前の短い時間でしたが楽しんだものでした。

今は産女の前は友釣り・石川釣りの専用区域になりましたが、以前はなんでもありの区域で、囮鮎を動かし、石を見る技術もいらない「ゴロ引き」という釣りが私の釣り方でした。
「ゴロ引き」はオモリの先に5~6本のハリを仕掛けて、川に投げ入れハリに魚を掛ける釣り方で、全天候型、濁っているとかえってハリが魚に見えないようで、鮎だけでなく、様々な魚が釣れました。
ですから、よほどの大水でない限り解禁日はお祭りで多くの釣り人で賑わいました。
又、その当時は魚が多くいたんですね。只ひたすらハリに魚が掛かるのを待つ釣りですから。
やがて資源保護の点からこの釣りは一部地域を除いて禁止となり、川の状態で左右される友・石川釣りの今日では、明日は静かな解禁となりそうです。

ところで、釣り人と云うと『漁夫生涯竹一竿』の句を思い起こします。
「山僧活計茶三畝」に続く句で意は寺の生活の簡易にして自給自足、清貧に安住した修行三昧の様子を云ったものであります。
この軸は一休禅師の書で大塚工藝社による工芸品で古書売り立てで求めたものです。
30代の頃、友人との酒席で『花と龍』を替え歌にして、
「坊主稼業で生き抜く俺は・どんな苦労も承知のうえだ・木魚たたいて御先祖拝む・これが男だ・これが坊主さ・・・・」なんて歌ったものでした。
良き時代を思い出しましたが、鮎の遡上も年々少なくなってきたと聞いています。
鮎を食べる「鮎かぎ」はここ数年見ていません。
この先、鮎は天然記念物、なんてことにならないように願うばかりです。

 
 

本堂天井吊木工事 完了

本堂の屋根裏の天井吊木の修理が完了しました。
まもなく建立して200年を迎える本堂は、数年前から小規模な補修工事が皆様の浄財によって行われています。
今年は、正月の元旦法要で新たに電気カーペットを設置した処、停電してしまい電源回路を増設してもらいました。最近の建物は各部屋毎にブレーカーがあるようですが、なんと20アンペアの回路一つということが判り、これでは停電するのも当たり前とのことでした。
工事に伴い本堂の屋根裏に入りましたが、その時に天井の吊木が中央の格天井を除いて総て釘が抜けていることが判りました。
改めて天井を見上げると、その為か天井が波うっているようです。
天井の工事となると埃が落ちるし参詣の皆様に不便をかけることもあり、又この次にと思いましたが、上を見るたびに気になり、掃除を覚悟して祖父の代からの出入りの大工さんに連絡しました。
他にも簾掛け・棚・等々の『こそくり仕事』もあり併せて工事に入ってもらいました。
産女観音 天井吊木産女観音 本堂小屋組

本堂内では十六羅漢さんの額が掛けられるよう造作してもらいました。
この額装十六羅漢図は、梅原猛先生の『羅漢  仏と人のあいだ』講談社現代新書に掲載されている、唐末の禅月大師貫休が描いた羅漢図を写したもので、作者は萩原鳳水(はぎわら ほうすい)さんで、曾て静岡市中野新田に住し、仏画から静物・美人画に至るまでの日本画を得意とした人です。
氏は若年、日本画を勉強し仕事の合間に絵を趣味で描いていたそうですが、退職後、いつしか寺院に仏画を納めるようになり、当山にも何回か訪れ、縁在って昭和五十四年十一月にこの羅漢図の写しが奉納されました。
今までは針金で引っかけて吊るしてありましたが、おかげで立派になりました。
又、お知らせを利用して他に行われた修復工事を紹介いたします。

産女観音 16羅漢産女観音 16羅漢

 
 

梅花大会の思い出

産女観音 山頭火短冊産女観音 オオヤマレンゲ

毎年この時期に開催される梅花流全国奉詠大会が東日本大震災の発生をうてけ中止となった。
梅花流は、曹洞宗で布教している御詠歌の流派で、その全国規模の大会は各寺院に設置された梅花講(御詠歌を学ぶ人の集まり)が参加して開かれる。
今年の大会は島根県出雲市「カミアリーナ」を会場に開催される予定であった。
2日間で一万人以上の人員が参加する大会に、私も地域の寺院の代表者として以前に参加講員を引率して山口県・北海道・山口県・埼玉県の大会に参加させて頂いた。
『分け入っても・・・』の写真は山口県の大会の記念品で、オオヤマレンゲを添えてみた。
この句は云うまでもなく「山頭火」の代表作であり、永平寺貫首 宮崎奕保禅師様が揮毫している。
山頭火は防府市に明治15年に出生し、放浪の詩人として知られているが、曹洞宗の僧侶として出家しており晩年 永平寺に参籠している。
永平寺では「てふてふ ひらひら 甍を超えた」と詠んでおり、悩み・憂いにみちた時代を過ぎ、サナギから蝶となって大きな山を超えた心境がうかがえる。                         平成17年に開催された山口県大会は、開会式の演出でドライアイスの霧のなかを進む衣姿の山頭火がとても印象的であった。
『分け入っても 分け入っても 青い山』緑に溢れたこの季節であるが、我々の悩み・苦しみ・欲・願望は尽きないものである。
昨日は朝日TVカルチャー受講生の皆様、明日からは地区中学校の生徒達が参拝に訪れる。お寺の歴史を紹介しているが、併せて今の自分が思っていることをお話させて頂いている。
参考にはならないかもしれないが、何か感じてくれれば幸いである。

 
 

蘭は幽谷に生ず

産女観音 セッコク産女観音 セッコク拡大写真
早朝本堂の勤行に続いて外の御堂を開き、お勤めに出かける。
つい先日まで寒さで下を向いて歩いていたが、暖かくなると自然に頭が上に向くようになる。
ふと見上げると、庭の樹木の枝の又に咲く『セッコク』の花が眼に入った。
あーもうこんな時期になったんだ・・・・・。
孔子の言葉に『蘭生幽谷,不以無人而不芳』とありますが、軸は永平寺60世を務めた
臥雲童龍禅師(1796~1871]の揮毫されたものです。
軸の揮毫では「而」の字が省略されています。
「蘭は幽谷に生じ、人無きを以て芳らずということなし」と読んでみました。
自然の花は総て時期が至れば咲きます。誰が見るとか見ないとかは関係ありません。
ややもすると私の為に咲いてくれたなどと思いがちですが、自分勝手な思考を諫めているようです。
明日は興津川の鮎の解禁日。新幹線の窓から眺め、小田原の御寺の施食会(お施餓鬼)法要に参加します。
除夜の鐘を撞いたと思ったら、もう施食会の季節になってしまいました。
産女観音 軸 永平臥雲禅師

 
 

5月15日は???

5月15日は現在の本堂を建立した黙旨賢道首座の命日です。天保二年(1831)に亡くなられた和尚様です。

産女観音 本源自性尼 位牌産女観音 黙旨賢道 位牌と、云っても旧暦の話ですから、季節的にはもう少し後になります。
ところで、当時の産女観音は、正式な住職がおけない地位のお寺でした。
士農工商の封建制度の時代、お寺にも同じような制度があり、判りやすく云うと、本店と支店の関係で、黙旨賢道首座は支店長のような地位でした。
但し、かなりの面で自由に経営は出来ましたが、葬儀等の法要には本店の和尚様が来て執行するすると云う制約がありました。この制度は明治まで続きましたが、それまでの檀家さん達は産女観音と本店のお寺両方に付届・御布施をしていました。
檀家数が少ない(35軒ぐらいかな)産女観音が古くなった御堂を再建するには経済的にも無理で、当時の駿河国の人々に寄進を願う他に方法は無かったようで、本源自性尼と云う尼僧さんが托鉢をしながら先触れとして本堂建立願いを知らせ、その後、檀家さん達が手分けして国内をまわって浄財を集め今の本堂が建立されました。
産女観音 本堂建立・托鉢帳産女観音 本堂寄付帳 2産女観音 本堂寄付帳 1

支店長時代の記録は店長がいつ代わるか判らない為、すべて庄屋(檀家総代)さんの蔵に保存されたようで、当時の資料がつい最近、総代の蔵で見つかりお寺に里帰りし、尼僧様のことも知った次第です。
まもなく建立200年を迎え、お参りの方々の有難い浄財で毎年、毎年部分的しか出来ませんが補修修復工事をして一日でも永く維持出来るよう頑張っています。

 
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